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青春小説レビューまとめ

これまでに書いてきた青春小説レビューをまとめました。
読みたいレビューがすぐ読めるようにリンクしてあります。

青山七恵『ひとり日和』
伊坂幸太郎『砂漠』
石川達三『青春の蹉跌』
村上龍『限りなく透明に近いブルー』(本誌掲載)
島本理生『クローバー』
金井美恵子『小春日和』
原田宗典『十九、二十』
遠藤周作『ピエロの歌』
三島由紀夫『金閣寺』
井上ひさし『モッキンポット師の後始末』
武者小路実篤『友情』
山崎ナオコーラ『長い終わりが始まる』
村上春樹『ノルウェイの森』
森見登美彦『四畳半神話大系』
福永武彦『草の花』
宮本輝『青が散る』
川端康成『伊豆の踊子』
本多孝好『正義のミカタ』
市川拓司『恋愛寫眞 もうひとつの物語』
中村航『絶対、最強恋の歌』
有川浩『キケン』
北村薫『空飛ぶ馬』(更新待ち)
坪内逍遥 『当世書生気質』(本誌掲載)
大江健三郎『われらの時代』(更新待ち)
朝井リョウ『もう一度生まれる』
橋本紡『流れ星が消えないうちに』
恩田陸『チョコレート・コスモス』
吉田修一『横道世之介』(本誌掲載)
石田衣良『シューカツ』(更新待ち)
安岡章太郎『悪い仲間』

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【レビュー】 『砂漠』 伊坂幸太郎


 伊坂幸太郎による五人の大学生を描いた青春小説。個性豊かな面々が今を気ままに生きている様子を描いたこの作品は、他の伊坂作品とは異なった魅力を見せている。何か大きな事件が起こるわけでもなく、無意味に時間を過ごしている学生たちがポップな文体で飄々と語られていく。「なんてことは、まるでない」というフレーズが多用され、ある種のシリアスな状況から主人公たちは身をかわしていく。読者を突き放すようなこの言葉であるが、使われる度に、読者を呆れさせ、安堵させ、驚喜させと、色を変えていき、すっかりこの軽妙な語り口に読者は操られてしまっている。

 そのように語られる小説であるが、その中にも西嶋という普通ではない熱量と率直さを持った人物が出てくる。この男は『星の王子様』で知られるサン=テグジュペリに影響されており、サン=テグジュペリが砂漠のなかで経験したことを書き綴った『人間の土地』という随筆集にある言葉を引用して語る。その一つが「彼方で人々が難破している時に、手をこまねいてはいられない。」という言葉であり、この言葉や考えは作品中において何度か現れることになる。

 この言葉の通りまさに西嶋は、「手をこまねいていられない」のであり、すぐに行動へと移していく。主人公の北村は冷めている鳥瞰型の人間であったが西嶋に影響を受け、少しずつ変わっていく。社会という「砂漠」から目を背けるようにして、モラトリアムの大学生活という「オアシス」のなかを彼らは生きているが、西嶋は「俺たちがその気になれば、砂漠に雪を降らすことだって、余裕でできるんですよ」と言いきってみせる。

 社会という「砂漠」にでるまでの長くて短いあっという間の四年間を描いたこの作品は学生にこそ読まれるべきだ。「人間にとって最大の贅沢とは、人間関係における贅沢のことである」という言葉がこれまた『人間の土地』から引用されているのだが、学生生活において人間関係ほど大事なものはないのかもしれない。この贅沢さえあれば、目の前に広がる「砂漠」にさえも「雪」を降らせることができるのだろう。


砂漠砂漠
(2005/12/10)
伊坂 幸太郎

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【レビュー】 『悪い仲間』 安岡章太郎


 大学予科に進学して最初の夏、「僕」が、悪友・藤井高麗彦に出会う。「僕」は窃盗などを日常的に行う藤井の姿に、憧れるようになり、「僕」もまた藤井の行為を模倣するようになっていく。そして「僕」のもともとの友人であった倉田を加えた三人の「遊び」は段々とエスカレートしてく。

 「僕」も倉田も藤井に対して異様なまでの執着心を抱いており、二人は藤井に認められようと悪事を競い合うようになる。藤井もまた、二人よりも「悪い」存在でなければならないと、より大きな悪事を行おうとする。このようなエスカレートしていく構造はなかなか自ら止まることができずに、チキンレースのようにして破滅へと向かっていってしまう。

 しかし、藤井が病に冒されたことによって、事態は変化する。「僕」は恐怖心のために三人の輪から離れようと決意し、街で藤井と倉田を見かけるも合流せずに身を隠した。そして、街へと消えていく二人の姿を背に、「僕」はそこから逃げ出した。「僕」のなかにあったのは卑しさや羞恥ではなく、ひたすら恐怖であった。

 この恐怖は藤井の病によって顕在化するのだが、三人の青年の中でエスカレートして言った「悪」がいずれ破滅をもたらすということが、藤井がいなくなることで三人のこの構造もまた終わりを迎えることが、わかってしまったからだろう。

 この『悪い仲間』において描かれる構造は、日本が太平洋戦争へと突き進んでしまったことを暗に表しているのだろう。そこにある恐怖に気付かなければならないのに、虚栄を張り続けた結果、もう止まることができず、破滅へと向かってしまった。この作品が書かれた後の現在でも、これと同様のことが起きている。ひとつ例をあげて言えば今問題になっているいじめなどもそうだろう。より酷い仕打ちをと、いじめがエスカレートしていき、その当事者はその先にある悲惨な結末を知ろうとすらしない。

 これは何も悪事やいじめに限った話では決してない。この「悪い仲間」をとりまく構造は、いたるところに存在しているのであり、その先にある恐怖を、「僕たち」は見つめなければならないのだろう。


ガラスの靴・悪い仲間 (講談社文芸文庫)ガラスの靴・悪い仲間 (講談社文芸文庫)
(1989/08/03)
安岡 章太郎

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【レビュー】 『クローバー』 島本理生


 この本の主人公は、大学生の双子、冬冶と華子。客観的な視点で冷静に物事を見る、地味な理系男子冬冶と、化粧バリバリ、積極的に行動する肉食系女子華子は、外見こそ似ていますが内面は全く似ていません。

 そんな二人が作品の中でふと、そっくりな台詞を漏らしています。

「べつに今の自分に満足していないわけじゃない。だけど自分の能力や色んな面に対して自信があるかと言われれば、むしろ後ろ向きなほうだと思う」
「たぶん、私があんまり誰かを本気で好きになれないのは、自分のことを好きじゃないからだよね」


 この台詞は二人の心の中に抱えている「不安」の一部を率直に表していると、私は思います。
 
 自分に100%自信がある人間など、なかなかいません。何かしらのコンプレックス、不安、あきらめ、絶望……そのようなどうしようもない思いを抱えながら、私たちは生きています。青春期は特に、子供から大人という社会的視線のカテゴリーの移行と自身の人生の方向性の選択という特殊な変化を求められる時期であり、大人になりきれない、また、子供のままでもいられない中途半端な位置にとまどう若者たちは皆、程度の差はあれ、「自分とは何か」「自分はどうあるべきなのか」という問いに直面し、葛藤するのです。

 作中、冬冶と華子もそんな変化の時期に、いろいろな人々と関わり、影響をうけていきます。自身の欲求に積極的に動く友、どこまでもまっすぐに好意をぶつけてくる相手、どこか反発を覚えていたけどやっぱり大きな存在であった両親、それぞれの意見が交差し、ぶつかり合い、築かれていく人間関係の中で、十分に悩みながら二人は様々な思いに折り合いをつけ、自分の答えを見つけていきます。

 この作品は、あとがきで作者の島本さん自身が「青春小説でも恋愛小説でもなく、モラトリアムとその終わりの物語、というとらえ方をするのが、自分の中では一番しっくりきます」と述べているように、はっきり恋愛小説とも青春小説とも区分することはできません。ですが思ってみれば、現実でも恋愛や青春やモラトリアムはそれぞれがそれぞれの構成要素であり、切り離すことなど出来やしないのです。

「ほっ」と優しく背中を押してもらいたいそんな時、青春期を卒業した大人も現在真っ只中の若者も、この作品の伸びやかな空気感に癒されてみてはいかがでしょうか。(文・飯村)


クローバー (角川文庫)クローバー (角川文庫)
(2011/01/25)
島本 理生

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【レビュー】 『青が散る』 宮本輝


 青春とは一度だけ人生に現れる儚い季節のことである。
『青が散る』は、一九八二年に刊行された宮本輝の青春小説。すでにドラマ化もされており、当時から青春小説として根強い人気を誇っている。新設大学のテニス部員椎名燎平が大学に入学してから卒業するまでを描いた作品であり、彼をめぐる友情や恋愛、スポーツなど全ての青春の要素が詰まった作品である。

 夏子との運命的な出会いから始まり、二人の淡い恋の行方や、金子との友情、テニス部を創設し大会を目指していく姿は、まさに青春しているのであり、それぞれが一つ一つで十分に小説ととなるような魅力を持っている。ここで一つ場面を引用するが、この場面の美しさは傑出している。そしてまた同時に儚さや切なささえも滲みだしている。

 夏子はあたりをうかがい、それから笑顔を浮かべて近寄って来、両腕で遼平の顔をかかえ込んで、頬に長いこと唇をつけていた。夏子の全身を包んでいる細かな水滴が、遼平にまといついている水滴と混ざり合ってつぶれ、そこだけ液体になって濡れそぼった。


 父親を亡くした夏子を送り届けた燎平にお礼だと言ってキスをする。もう一度と冗談交じりにねだると、こんどは夏子の長いキスによって、霧雨のせいで二人にまとわりついていた細かな水滴が触れ合って一つの水滴へと変わる。ここにこそ青春の、恋の儚い一瞬が凝縮されているのであり、それをこうした二人の心理には触れず、情景描写のみで書き表そうとした作者の類まれなるセンスを感じる。

 まさに青春小説の金字塔とも言えるこの作品だが、その評価すべきは青春の「散る」までを描きったところにある。タイトルの『青が散る』とはまさに「青」春が「散る」ということなのだ。

 燎平は大学の四年間を振り返って「恥ずかしい時代」だったと言う。その「恥ずかしかった」大学生活を終え、「青春」を終えてしまった燎平はもう夏子に手を伸ばすことができなかった。また夏子の目からはもう「不思議な緑」が喪われてしまっている。燎平が夏子に恋をしていた時代は終わってしまったのだ。そしてそれぞれの登場人物もそれぞれに何かを喪ってしまっている。そうした虚しさのなかで、青春が散っていくことが確認されてしまうことで物語は閉じてしまう。

 青春とは一度だけなのだと確認させる小説。それは残酷ではあるが、その残酷さの裏には、一度しかない時代の美しさがたしかにあるのだ。(文責:伏見)


青が散る〈上〉 (文春文庫)青が散る〈上〉 (文春文庫)
(2007/05)
宮本 輝

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青が散る〈下〉 (文春文庫)青が散る〈下〉 (文春文庫)
(2007/05)
宮本 輝

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【レビュー】 『青春の蹉跌』 石川達三


 現在最も注目を受けるであろう文学賞となった芥川賞、その第一回受賞者である作者のこの中編作品は、豪華なキャストで映画化され、現在でも読み続けられるベストセラーとして知られている。

主人公の江藤は法学部で司法試験を受けようとしている学生で、専攻のみを学び人格的には未発達な印象を受ける。そして彼は民主主義の日本でどのようにすれば将来裕福な生活ができるかを常に考えている。理想論は掲げず、ただ現実のみを見て、成功のためには屈辱も受けるという強い出世欲を持っていた。彼の家は貧しかったのが大きな理由である。そのため登美子という学生の家庭教師をして家計を助けた。その中で二人は肉体関係をもつようになっていた。大学に行けているのは裕福である叔父から援助を受けていたためだった。江藤の目標は叔父が求めている司法試験に合格し、叔父の娘である康子と婚約をかわすことであった。登美子との関係を続ければ、彼の目標は遠くなっていく。未来のことに目を向けすぎて今のことを見ていない江藤の行く先はどうなるのか。

 江藤の将来を見据えそのために今を生きる姿は現代の安定志向を目指す若者にも当てはまるところである。近年の不況による就職難は、その風潮をますます加速させている。理想的な世界に変えるために学ぶのではなく、現在をいかにいきるかを学ぶ。それはまさに現代的で現実的な選択である。実際自分より優秀であった人物が、共産主義に肩入れして警察に捕まったときにも、それが色濃く表れている。革命や政治の理想を説く学生は、この小説が書かれた一九六〇年代においては典型的な学生であり、うまく時代背景とマッチさせている。

青春の蹉跌とはいえない重いテーマが、この小説には描かれている。読み終わったあとには実際に青春を生きている学生にも、再び今と未来について考えさせられていることだろう。(文責:澤砥)


青春の蹉跌 (新潮文庫)青春の蹉跌 (新潮文庫)
(1971/05)
石川 達三

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【レビュー】 『金閣寺』 三島由紀夫


 主人公の「私」は幼少の頃から父に「金閣ほど美しいものは此世にない」と何度も教えられ、美というものに執着して生きてきた。また彼は吃音というコンプレックスのために、世界との間に壁を感じてしまっており、周囲の人間ともうまく付き合うこともできずにいる。柏木などの友人と交流していき、一時、自身の生に満ち足りたものを感じたりさえするものも、ついには「金閣を焼かなければならぬ」と決意し、彼は金閣寺と心中することを選ぶ。

 この作品はまさしく美を求めた文学だと言ってもいいだろう。それは文体の面においても同じであり、徹底した美的文体によって、その美的緊張感が絶えぬままに作品は語られ続ける。ここで語られる美=金閣寺というものは戦後失われてしまったものだと考えられるだろう。金閣寺は結末にて、炎上し失われてしまう。ここにこそ、この作品の悲劇性が結実するのであり、敗戦によって美が失われてしまったことへの三島の憤りのようなものが表現されている。

 それは三島が抱えていた問題意識と密接に絡み合っている。語り手の「私」は自己の心理を透徹した分析によって解剖していき、人間の暗い部分や鬱屈としたものを露わにしいくが、これは三島自身の内にあるものと重なっていく。失われた美というものは三島にとっての「天皇」であったと言い換えることもできるだろう。美の象徴としての金閣寺が失われたのは、日本の象徴としての「天皇」が失われてしまったのとパラレルな関係にある。三島が抱えていた戦後の日本の問題意識なのであり、三島の中にあった悲劇であった。

 本作は、実際に起きた事件を基にして語られる。三島は金閣寺放火事件を媒介にして、自己の問題を語っているのだ。つまりは、三島の「仮面の告白」がここで行われているのだ。全青春の決算として綴ったという『金閣寺』には三島の存在が、三島の悲劇が、圧倒的な美しさとともに描かれている。(文責:伏見)


金閣寺 (新潮文庫)金閣寺 (新潮文庫)
(2003/05)
三島 由紀夫

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【レビュー】 『ノルウェイの森』 村上春樹


 村上春樹の『ノルウェイの森』は一九八七年に発表された書き下ろし作品である。多くの読者を得た作品であり、現在単行本・文庫本等を含めた日本における発行部数は一〇〇〇万部を超えている。本作は三十七歳の「僕」が回想する形式で語られており、主に一九六九年という学生運動の時代を背景として、「僕」と直子、「僕」と緑、この両者との関係が中心となって描かれている物語である。

『ノルウェイの森』は「100パーセントの恋愛小説」というキャッチコピーのもとに出版され、恋愛小説として受容されてきた。確かに小説内では「僕」をめぐる恋愛が描かれており、その意味では恋愛小説と言えるのかもしれないが、この作品における恋愛が成立していたのかどうかは疑問である。村上春樹自身も「『ノルウェイの森』は正確な意味では恋愛小説だと言えない」として、「この小説をあえて定義づけるなら、成長小説という方が近いだろう」と発言している。

 作中において「僕」は多くの女性と簡単に関係を持つ、これは他の村上春樹の小説においても見られるが、そのような肉体関係は軽いものでしかなく、恋愛を描けていない、などという反応さえ見ることができる。しかし、そのような批判は、村上春樹の描こうとしているものを考えたのならば、あまり意味をもたないだろう。

 むしろその軽さは、他者と誠実に向き合えなくなってしまった現代の人間の問題を、恋愛の不可能性を描き出していると考えられないだろうか。実際、作中において「僕」は直子を「待つ」ことができない。そして緑の方へ進もうとするも、それも果たされないであろうことが示唆されて終わる。十八年後の「僕」が飛行機のなかで孤独を感じ、そこに誰かの影を感じることができないことからもそれが窺える。

 確かにこの作品は「100パーセントの恋愛小説」なのかもしれない。ただしそれは、恋愛をする人間を描いたものではなく、恋愛ができない人間を描いたものなのだろう。村上春樹はこの作品にポストモダン的な問題を持ち込んだと答えている。ポストモダンにおける「恋愛」の不可能性、人間が陥った孤独を描いた作品が『ノルウェイの森』なのだ。(文責:伏見)


ノルウェイの森 上 (講談社文庫)ノルウェイの森 上 (講談社文庫)
(2004/09/15)
村上 春樹

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ノルウェイの森 下 (講談社文庫)ノルウェイの森 下 (講談社文庫)
(2004/09/15)
村上 春樹

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【レビュー】 『モッキンポット師の後始末』 井上ひさし


 井上ひさし氏といえば、私の場合、『ひょっこりひょうたん島』を頭に浮かべる。平成四年生まれの私でも、あの有名な歌をよく歌ったものだ。
 さて、今回の作品は『モッキンポット師の後始末』であるが、まず物語のあらすじを講談社文庫から紹介したい。

 食うために突飛なアイデアをひねり出しては珍バイトを始めるが、必ず一騒動起すカトリック学生寮の〝不良〟学生三人組。いつもその尻ぬぐいをさせられ、苦りきる指導神父モッキンポット師――ドジで間抜けな人間に愛着する著者が、お人好し神父と悪ヂエ学生の行状を軽快に描く笑いとユーモア溢れる快作。

 主人公とその友の三人組は不良などと言うが、その実情は毎日まともな食事にありつくのも難しい、普通の苦学生である。ただ、金を稼ぐために万引きをしたり、ストリップ劇場で働いたりは、カトリック信者として(前者はそうでなくともであるが)許されないものであった。毎回彼らの起こした問題の尻拭いをするのが、お人好しのモッキンポット師である。しかも同時に、モッキンポット師は彼らの職業安定所的存在でもあり、職を失えば次のところに保証人として彼らを紹介し、また騒動が起きる、という繰り返しだ(物語の舞台は簡単にバイトが見つかる時代ではない)。三人が暮らしていた極貧の聖パウロ学生寮は、皮肉なことに、彼らが食費・寮費を稼ごうと張りきるたびに没落の一途をたどり、ついには住む場所さえも失うのだ。当然、彼らについてくれるモッキンポット師にも損が降り積もる。

 不良と言えども根は真面目な三人。前回の失敗を繰り返さぬよう、温かい周りに報いようと、善意の行為も悲しきかな、最後はやはり失敗に終わる。そんな彼らと聞こえようによっては聖人君子などこか抜けてるモッキンポット師。悪知恵の発想力と若さゆえの行動力に乗りまくっている様は、褒められたものではないのだが気持ちがいい。それだけではなく、モッキンポット師を通して道徳について考えさせられるのもこの作品の面白いところだ。罪は罪、というわけではなく、「生きるための嘘や。天に在します御方も見て見ぬ振り、見逃してくださると思いますけどな」と言って三人を詐欺紛いの手段で聖ピーター修道会に紹介したモッキンポット師が強く印象に残っている。無宗教者ではなく、根っからのカトリック神父がそう言うのだ。汚れた金を稼ぐのは駄目、時折の嘘は仕方ない。矛盾しているようで一貫した観念で三人組を導くお人好し神父の物語。私としては一押しの作品だ。(文責:三好)


モッキンポット師の後始末 (講談社文庫)モッキンポット師の後始末 (講談社文庫)
(1974/06/26)
井上 ひさし

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【レビュー】 『長い終わりが始まる』 山崎ナオコーラ


 マンドリンサークルに所属する小笠原は、就活や恋、勉強そっちのけで、マンドリンに打ち込んでいる大学生四年生。周りの同学年がコンサートマスターや、コンダクターなどの肩書をもっている一方で、小笠原は人一倍時間や金をマンドリンに打ち込んでいるのに、なんの肩書も得ることができず弱い立場にいる。

「おまえら全員、そこで調和してろ!私は調和しない!」

小笠原は「キレイごと」を嫌うかのようにサークルのみんなと協調しようとしない。サークルの上下関係や、役割の運営に関しても不満を沢山持っている。しかし、小笠原はサークルに片思いでもしているかのように自分から退部することはない。そんななかでコンダクターの田中とは唯一音楽の話を通して語り合い、繋がりあう。しかし、ふたりの関係は始まりそうで始まらないし、途絶えそうで途絶えない。

音楽を極めるより「友達作り」や「思い出作り」を目標にやっている「みんな」、と壁を感じている小笠原はサークルの中で度々突飛な行動を起こしもする。卒業演奏をみんなでキレイに作り上げようとすることにも納得がいかない小笠原であったが、少しずつ心を通わる喜びを感じるようになる。

 曖昧な位置、曖昧な感情がぐるぐると主人公を取り囲んで物語はゆるゆると進んでゆく。大学生、という時期は大人だけど、大人になりきれていない曖昧な時期だ。

『将来に繋がる就職活動よりも、先のないサークル活動に力を注ぎたい。恋人でない男の子と音楽を作ることが、ストイックで、刹那的で、高潔な活動で、今しかできない大事なことなのだ。今だけ生きて、あとで死にたい。』
 
 いつまでもその「瞬間」が続いていくかのように思えたり、でも感情や環境はしっかりと確実に変わっていったり。いつが終わりなのか始まりなのかは、果てしなく曖昧である毎日を主人公は過ごしていく。休符があったり、クレッシェンド、デクレッシェンドがあったり、ダカーポがあったり、大学生活はまるで、オーケストラの楽譜みたいだ。頑固で熱い気持ちと、どこか寂しげでヒリヒリするような感情の繋がりが心地よい、青春小説。(文責:澤)


長い終わりが始まる (講談社文庫)長い終わりが始まる (講談社文庫)
(2011/10/14)
山崎 ナオコーラ

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プロフィール

法政文芸編集委員会

Author:法政文芸編集委員会
法政大学国文学会が発行する文芸誌「法政文芸」編集委員によるブログ。編集の様子やオススメ本の紹介など、個性豊かに発信していきます。法政文芸のバックナンバー、その他のご質問はこちらまで→hosei.bungei@gmail.com

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